klimbrothers’s 童話と絵ブログ

本当ハ面白イクリム童話と絵描きグスタフクリムのブログです。

アルフレッド・ウォリス

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今日の『美の巨人たち』はアルフレッド・ウォリスでした。

良い放送でした。

番組の中で絵を説明するために『子供が描いたような絵』

という言葉が使われていました。

よく使われる言葉です。

何が言いたいのでしょうか。

こんな素晴らしい繪なら

子供が描こうが、大人が描こうが関係ありません。

描きたいモノしか描かれていない絵でした。

多分彼の理想しか描かれていない絵でした。

絵の真ん中で凛と緊張感をたたえた帆船。

愛らしい港の町並み。

ユーモラスな突堤

荒く白い波。

ぽつんと優しい燈台。

つまり本当はこう言いたかったんだろう。

何の理想もなく、写真を写したみたいに描ける『行為』を

理想と勘違いして絵を描く大人が描いた絵ではない、と。

『子供が描いたような』が稚拙という意味なら、

それは美とはなんの関係もないところで絵を語っているということだ。

心の中に絵として再現したい美があるのか、愛があるのか。

それを実現するのに必要なら写実を。

しかし、写真でさえいらつくのだから、単純に写実が心の理想と結びつく筈ないことは

みんな承知していることではないか。

心に見えなかった美をどうして描けると思うんだろう。

それを技術とどうして思いこむんだろう。

素晴らしい写実絵画は作家の心の中にあるのだ。

ルフレッド・ウォリスも全く同じことをしている。

ルフレッド・ウォリスだって遠くの景色は絵の上に、近くの船は絵の下に描いている。

もし技術と呼べるものがあるとしたら、心の中にしか無いモノを

目の前に描くという困難を克服しているということだろう。

ルフレッド・ウォリスも天才だ。

稚拙か巧みか、本当に美を表現する言葉ではない。

僕が絵が下手だと思うのは僕の絵が稚拙だと言っているのではないし

稚拙だと思っているのでもない。

心に美しい景色が脆弱で、またその美がどんな目に見える形で

絵になるのかも全くよく解っていないという意味です。


ルフレッド・ウォリス。この名を忘れないためにこの記事を書きました。