気付かなかったこと
母は八十五歳。
母の周りには血のつながる親戚は殆どいない。
母をお姉さんと慕う親戚はみんな父の親戚。
昔から母は父の親戚からみなにお姉さんと呼ばれ慕われていたけれど
それが何故なのか、父の田舎の習慣なのか、父の親戚の人達の人柄なのか、解らなかった。
僕も、母も。
父は才に長けた人だった。
小柄だったけど、高等小学校しか卒業していなかったけど
若い頃クイズ番組で全問正解したり、我流でも楽器が弾けたり、絵が描けたり
体操の選手みたいに自然倒立が出来たり。
会社を辞めるまで工場長もつとめた。
親戚に一目おかれていたのかな。別に深く考えることもなかったけど、
血のつながりのない母がそんなに慕われるのは、だからかなくらいに思っていた。
父はアルコール中毒で発作を起こし、風呂で溺れて死んだ。
家でではなく、頼って行った東北に住んでいた祖母と叔母の住まいの近くの家で。
父は酒狂いと同時にギャンブル狂いでもあった。
給料袋が空っぽだったこともあったらしい。
気立ての悪い人ではなかったけれど、母にとっては殺してしまいたいくらい憎らしく
父が母の貯金を盗んで蒸発して行方不明になってから数年後離婚届けをだした。
父は母のトラウマとなり、突然現れるという恐怖がいつも母を苦しめた。
結局父が祖母と叔母を頼って東北まで行って、三十歳も若い障害をもつ女性と夫婦のように同居して
辛うじて生きていたことを知ったのは、父が死ぬ直前だった。
母一人で暮らす実家には父の写真は一枚も残っていない。
母が全部破いて捨てたから。
父もいなくなり、離婚もし、掃除婦をしながら一人暮らしの生計をやっと保ちながら生きてきた母を
それでも、今でも、父の親戚の人達は姉さんと慕ってくれている。
『こんなお婆ちゃんを、なんでお姉さんなんて、慕ってくれるのかしら?』は母の口癖だ。
先日、駅のバス停で長い間バスを待っていたら、久しぶりにまた親戚の女性と偶然再会したらしい。
やっぱりその人は母の肩を嬉しそうに叩きながら
『やぁ、お姉さん、元気そうでよかったわ~』と話しかけてくれたそうだ。
ここまでは、母から何度か聞いていた。それ以上の深い話は聞いていなかった。
その続きがあったなんて想いもよらなかった。
母の家に行っても大抵一晩くらいしか泊まることもない僕だけど
この連休は、丁度お彼岸でもあったし、父の墓参りも兼ねてもう一晩泊まることにした。
そして二晩目に、その話を初めて聞いた。母の目にあふれる涙とともに。
『お姉さんがいたから、あんな親戚中からの嫌われ者が、ちゃんと所帯ももてて・・・。
親戚のみんなお姉さんに感謝してるねんで。』
その親戚の人も何故ずっとそんな話を秘密にしていたのだろう。
もちろん意識していたわけはない。話す機会がほんとうになかったのだ。五十八年間も。
父は右肩には児雷也の入れ墨があった。左腕には母とは違う女性の名前も彫られたままだった。
若い頃はテキ屋と呼ばれる商売をしていた。
親が間違って一年早く届けられた戸籍のために小学校へ入学した時もおしめが取れたばっかりだったらしい。
にもかかわらず成績優秀だったのに、親のせいか、時代のせいか中学校へも進めなかった。
体格が悪く、予科練にも行けなかった。そして戦後、テキ屋。
結婚してからも放浪癖は治らず、会社に行くといったまま帰らぬこともたびたびあったらしい。
親戚中から嫌われていたのだ。
尊敬されていたからではなく、そんな父『にもかかわらず』だったのだ。
これは母の嘘ではない。
不幸の下に気付きもしなかった幸福が眠っていたのだ。
幸福の下にも気付きもしなかった不幸が
埋もれているに違いない。
不幸は幸福の原因ではない。
幸福は不幸の原因ではない。
僕たちは無数の幸福と無数の不幸と
共存しているのだ。
実験室や温室で幸福だけ作れると思ったら大間違い。
亡くなった人々の上にではなく、生き残った僕たちだけが
やっと一生かかって気付く。
幸福と不幸。
それが生きることの意味やったんや。
母の周りには血のつながる親戚は殆どいない。
母をお姉さんと慕う親戚はみんな父の親戚。
昔から母は父の親戚からみなにお姉さんと呼ばれ慕われていたけれど
それが何故なのか、父の田舎の習慣なのか、父の親戚の人達の人柄なのか、解らなかった。
僕も、母も。
父は才に長けた人だった。
小柄だったけど、高等小学校しか卒業していなかったけど
若い頃クイズ番組で全問正解したり、我流でも楽器が弾けたり、絵が描けたり
体操の選手みたいに自然倒立が出来たり。
会社を辞めるまで工場長もつとめた。
親戚に一目おかれていたのかな。別に深く考えることもなかったけど、
血のつながりのない母がそんなに慕われるのは、だからかなくらいに思っていた。
父はアルコール中毒で発作を起こし、風呂で溺れて死んだ。
家でではなく、頼って行った東北に住んでいた祖母と叔母の住まいの近くの家で。
父は酒狂いと同時にギャンブル狂いでもあった。
給料袋が空っぽだったこともあったらしい。
気立ての悪い人ではなかったけれど、母にとっては殺してしまいたいくらい憎らしく
父が母の貯金を盗んで蒸発して行方不明になってから数年後離婚届けをだした。
父は母のトラウマとなり、突然現れるという恐怖がいつも母を苦しめた。
結局父が祖母と叔母を頼って東北まで行って、三十歳も若い障害をもつ女性と夫婦のように同居して
辛うじて生きていたことを知ったのは、父が死ぬ直前だった。
母一人で暮らす実家には父の写真は一枚も残っていない。
母が全部破いて捨てたから。
父もいなくなり、離婚もし、掃除婦をしながら一人暮らしの生計をやっと保ちながら生きてきた母を
それでも、今でも、父の親戚の人達は姉さんと慕ってくれている。
『こんなお婆ちゃんを、なんでお姉さんなんて、慕ってくれるのかしら?』は母の口癖だ。
先日、駅のバス停で長い間バスを待っていたら、久しぶりにまた親戚の女性と偶然再会したらしい。
やっぱりその人は母の肩を嬉しそうに叩きながら
『やぁ、お姉さん、元気そうでよかったわ~』と話しかけてくれたそうだ。
ここまでは、母から何度か聞いていた。それ以上の深い話は聞いていなかった。
その続きがあったなんて想いもよらなかった。
母の家に行っても大抵一晩くらいしか泊まることもない僕だけど
この連休は、丁度お彼岸でもあったし、父の墓参りも兼ねてもう一晩泊まることにした。
そして二晩目に、その話を初めて聞いた。母の目にあふれる涙とともに。
『お姉さんがいたから、あんな親戚中からの嫌われ者が、ちゃんと所帯ももてて・・・。
親戚のみんなお姉さんに感謝してるねんで。』
その親戚の人も何故ずっとそんな話を秘密にしていたのだろう。
もちろん意識していたわけはない。話す機会がほんとうになかったのだ。五十八年間も。
父は右肩には児雷也の入れ墨があった。左腕には母とは違う女性の名前も彫られたままだった。
若い頃はテキ屋と呼ばれる商売をしていた。
親が間違って一年早く届けられた戸籍のために小学校へ入学した時もおしめが取れたばっかりだったらしい。
にもかかわらず成績優秀だったのに、親のせいか、時代のせいか中学校へも進めなかった。
体格が悪く、予科練にも行けなかった。そして戦後、テキ屋。
結婚してからも放浪癖は治らず、会社に行くといったまま帰らぬこともたびたびあったらしい。
親戚中から嫌われていたのだ。
尊敬されていたからではなく、そんな父『にもかかわらず』だったのだ。
これは母の嘘ではない。
不幸の下に気付きもしなかった幸福が眠っていたのだ。
幸福の下にも気付きもしなかった不幸が
埋もれているに違いない。
不幸は幸福の原因ではない。
幸福は不幸の原因ではない。
僕たちは無数の幸福と無数の不幸と
共存しているのだ。
実験室や温室で幸福だけ作れると思ったら大間違い。
亡くなった人々の上にではなく、生き残った僕たちだけが
やっと一生かかって気付く。
幸福と不幸。
それが生きることの意味やったんや。